風が、緩やかに渓谷を駆け抜けていく。
「ここからなら、ホドを見渡せる。それに……約束してたからな」
振り向けば、そのひとはいた。こちらに向かって落ち着いた足取りで歩いてくる。
懐かしい声。でも二年前より少し低くなったような気がする。
「変わりたい」と願って切った髪はまた伸びて、赤い絹糸が風に流れている様はまるで初めて出会った時のよう。
翠の瞳は強い意志を秘めていて、相変わらず透き通った輝きを見せる。
何度も夢に見、その度に目が覚めて絶望した光景が、今また目の前に映っている。
「ティア」
「…………っ、本当に……ルーク、なの……?」
名を呼ばれ、いつの間にか息がかかる距離まで近づいて来ていた彼に抱きすくめられた。
細腕なのにがっしりと力強い腕の感触に、無意識に肩が震える。
「俺は、ここにいるよ」
あの頃より少しだけ大人びた顔で、彼はふわりと微笑んだ。
優しい声音は確かな現実感を伴って、鼓膜どころか心臓まで震わせた。
頬に流れた水の感触で、泣いていたことに気づく。
こんな感覚、夢ではとても感じられなかった。
本当に彼は還ってきたのだと、そこでやっと実感した。
「────ばか。」
夢中で抱きしめ返した身体は背が伸びていて、見上げるのが精一杯だった。
「ご主人様~!!ミュウもご主人様に会いたかったですの!!
「痛っ!おま、何すんだよこのブタザル!」
「みゅうぅぅぅぅぅ、ごめんなさいですのぉ~……」
青い聖獣は走ってきた勢いそのままに、主人の顔に体当たりした。
岩をも砕くミュウアタックの餌食になった彼は、痛そうに呻いてから久しぶりにブタザル発言をした。
「あぁ~、ルーク、ティア泣かせてる~!」
「おやおや、ルークは悪い男ですね」
桃色と青色の軍人はにやにやとからかいの笑みを作り、
「ったく、馬鹿野郎!二年も待たせやがって!」
「本当に!わたくし達がどれほど心配したと思ってますの?」
金髪の貴族は嬉しそうに彼の背中を軽く叩き、王女は涙混じりに得意のお説教をした。
仲間に囲まれた彼はばつが悪そうに頭をかき、謝る代わりにどこか照れながら(きっと言い慣れていないのだろう)、
言った。
「まぁ……ただいま。」
私達の気持ちを揃えるのに、これほど相応しい言葉はなかった。
口調の差異はあれど、誰一人タイミングの違うことなく、返答はもちろん。
「おかえりなさい!!」
「……けど、あなたどうやって帰ってきたの?」
場所を移して、今はアルビオールの船内。
夜の渓谷は危険だという大佐の指示に従って乗り込んだのだった。
ノエルは感動もあらわに涙が零れそうになっていたが、態度だけは毅然として、しっかり「おかえりなさい」を告げた。
そしてそのまま二人揃って船室に放り込まれて、今に至る。
「わたし達は先に夕食でも食べてるから、お二人はごゆっくり~♪」とのアニスの言葉だったが、絶対に嘘だ。
扉の外から何やら複数の気配を感じる。主に誰かは分かり切っているが。
「俺は身体が乖離したはずだから、この身体は……アッシュのだと思う。ローレライがそう言ってた」
扉の向こうで息を呑む音が聞こえる。……ナタリアだろうか。
俺は、とそれに気付かないままルークが続ける。
「あの時ローレライの鍵を使って地殻に降りた。
崩壊したエルドラントの柱とかも一緒に落ちてきたけど、
譜陣から出た膜……みたいなものに守られて平気だった。そしたら、アッシュが……っ」
語るには辛いのか、ルークの顔が苦々しく歪められる。
「上を見上げたらアッシュが落ちてきて、膜を突き抜けてきたから慌てて受け止めた。
あいつ……死んだっていうのに、見たことないくらい安らかな顔してたんだよ。まるで眠ってるみたいに。
それに血の気が完全に引いてて、身体がすごく重くて……!本当に死んじまったんだなって、思った」
その状況を語るルークの顔からも同じく血の気が引いて蒼白だった。
心配だったけれど、敢えて口には出さない方がいいだろうか。
「そのあと譜陣から金色の光…焔かもしれない。それが伸びて、俺たちを囲んだ。
人みたいな形になって、あの頭痛の声────ローレライが現れた。
『私の見た未来が僅かでも覆されるとは……驚嘆に値する』って」
ローレライが見た未来────つまり惑星預言では、世界は滅びることになっていた。
しかし世界は滅びなかった。預言に ”死ぬ” と詠まれた少年の犠牲を払って。
そして今、少年は確かに還って来たのだ。
そのまま譜石帯へ昇るのかなって思ってたら、ローレライがこう言った。
≪契約を果たしてくれたお前達には感謝している。私の力で叶えられることがあるなら聞こう≫
「……俺が生き返ることは?」
≪可能だ≫
「なら、アッシュも一緒に……」
≪それは不可能だ。肉体が乖離して精神が残るルーク、死んで肉体だけが残ったアッシュ。
復活させられるのは、私の力を以ってしてもどちらか一人≫
「そんな……!」
俺は……散々迷った。
死にたくない、生きたい!って思う一方で、あいつが生き返ってナタリアと幸せになる未来も、
同じくらい見てみたかったんだよ。
そしたら、頭の中であいつの声がして、いつもみたいに「屑」って言われた。
「あ、アッシュっ!?」
『おい屑!お前、この期に及んで俺を生き返らそうとか考えてんじゃねえだろうな!?』
「な……なんで解るんだよ」
相変わらず口悪いなぁ、と思うと同時に、それが凄く懐かしい響きも持ってた。
別れたのは、ほんのちょっと前だっていうのにな。
『屑の考えなんてお見通しだ。相変わらず他人のことばっかり考えやがって、お前甘すぎなんだよ!
少しは自分を優先しやがれ!』
「アッシュだって今、俺のこと優先してるじゃないか!」
『勘違いするなよ。俺はあの時俺なりに満足して死んだんだ。今更生き返るつもりはない』
「そんな!ナタリアが待ってるんだぞ!父上や母上だって……!」
『お前こそ仲間が待っているんだろうが!……約束、したんだろう?』
“だからこそ生きて帰ってきて下さい。そう望みます”
“だから、さくっと戻って来いよ。このまま消えるなんて許さないからな”
“そのためにはぁ、パトロンが必要でしょ♪ちゃんと帰って来てね!”
“生き延びて下さい。私はもうこれ以上大切な人を失いたくありません”
“必ず。必ずよ。待ってるから。ずっと。ずっと……!”
ジェイド、ガイ、アニス、ナタリア、そして……ティア。
そう、俺はみんなと約束した。
叶わないと知ってて交わした。でも心のどこかで叶ったらいいなってずっと願ってた。
それが今、現実になろうとしている。
……本当はもっと、もっともっとみんなと一緒にいたかったんだ。
くだらない話をして、アニスとジェイドにからかわれて、ナタリアが怒って、ガイが慰めて、ティアが嗜める。
もう一度、そんな日常を望んでも良いんだろうか。
“ルーク……すき。”
あの言葉がもし幻聴なんかじゃないのなら、今度こそ返事がしたい。
辛いこともあった。悲しいことも苦しいことも沢山あった。
それでも俺は────俺は、生きていたいんだ!
『……ようやく本心が出たか。遅いんだよ、屑が』
「え……!?」
俺の身体が淡く光り始めて、続くように抱えたままのアッシュの身体も輝き始める。
「おい、待てよアッシュ!このまま消えちまうのか!?」
『消えるわけじゃねえ……記憶は残るさ。俺が存在していたという証は、お前の中に残るんだ』
「そういうこと言ってんじゃねえって!」
『屑が。せっかく生き残れるってのに何シケた面してんだ。もっと嬉しそうにしやがれ』
「そんな顔出来る訳ないだろ!だって俺は、お前の身体を……」
『俺が良いって言ってるんだから良いんだよ!いい加減納得しろ!』
納得なんて、一生かかったって出来るかよ!俺は、俺は────!
『そろそろ時間だ。せいぜい無事に戻れたら、お仲間と仲良くやるんだな』
「アッシュ、これだけは忘れないでくれ!お前だってもうとっくに俺たちの仲間なんだ!」
『…フン。お仲間ごっこはお前らだけで十分だ』
短い沈黙は、何だかくすぐったそうに聞こえた。
『じゃあな……ルーク』
「アッシューーーッ!!」
滅多に呼ばれることのなかった名前の響きと共に、俺達は完全に光に溶けていった────
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